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いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
このところ風邪をひいたり、本を読んだり、本を眺めたり、文章書いたり、アニメ観たりしておりました。本はあれこれと読みさしが増えておりますが、小説・読み物・写真集と、ジャンルはバラバラなので混乱することなく、のんびりと楽しんでおります。
小説は「戦闘妖精・雪風 改」を。まだ序盤です。本格的なSFを読むのは伊藤計劃の「虐殺器官」「ハーモニー」以来でして、頭のエンジンがかかりにくい状態です。特にメカメカしい系(命名わに)は、文系脳にとってどうにもとっつき悪いのですが、読み進めて設定が頭に入ってしまえばほとんどハズレなく面白い。そんなわけでのろのろと、しかし期待に胸をふくらませて読んでいます。
つぎに読み物ですが、「くらげる」という文系クラゲ読本です。実は著者の平山ヒロフミ氏は、私にとってクラゲに関する師匠であり、拙作「くらげ予報士」執筆にも多大な影響と示唆を与えてくださった方です。今回の本は「クラゲLOVE 111」と副題がついており、冒頭ではクラゲの基礎知識を分かりやすく親しみやすく説明し、そのあとにはクラゲが楽しめる施設や様々なメディア、グッズまで取り上げ、クラゲにまつわるトリビアから、簡単なクラゲの飼育方法、最後にクラゲと身近な職種・職場などを紹介しています。ぎっしりクラゲ満載の一冊です。
なお、11月には東京お台場で、くらげに関するイベントの開催を予定されています。(詳細は後日あらためてご紹介させていただきます。)
写真集は「100年前の写真で見る 世界の民族衣装」という本。とにかく楽しいです! 本屋で見つけて衝動買いしてしまいました。ただただ眺めてにやにやしております。
アニメに関しては、秋期アニメが始まったので、古い録画データの整理などに追われています。
さて。
拙作「温みの獄」もとうとう連載100回を越えました。誑の章は順調に第十話へ突入。年内には章を〆て、新年から新章に取りかかる予定です。その前にブログ用バナー作成のお礼を果たさねばなりませんが。
今しばらく流血場面が続きますが、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
更新滞ってしまいました。ふう、よれよれでございます。遅くなりましたが、拍手コメントの返信は下記 [つづきはこちら] よりご確認ください。
現在、古本の整理に追われています。査定結果が出ましたので、近日中に梱包してお店に送ればミッション終了でございます。
しかし古本の整理中に、発掘してしまった本をついつい読みふけってしまうという罠にも順調にかかり、作業は遅々としてすすみません。本を揃えて箱につめるだけなのに。
さて。
かかった罠の一つは「バルバラ異界 / 萩尾望都」です。久しぶりに読み返してみて、これはやっぱり手元に置いておくことにしました。
萩尾望都作品におけるハッピーエンドは、とてもさみしい。ハッピーエンドなのに大団円ではない。何かが欠けています。「バルバラ異界」も、そんなさみしさが残る作品でした。同作者の「マージナル」にも共通する、不完全な幸福を、それと知っていながら受け入れる物語だと思います。
「マージナル」を数年ぶりに読み返したとき、某SNSで感想としてこう書きました。今回もまた、同じ感慨をここに記します。
萩尾望都を読んだと満足した。
いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
前エントリの、かなりどーでもいい話しにまで拍手いただきまして恐縮です! ありがとうございます。
連日暑いうえに、当方の住居付近ではえげつない雷雨が続きました。東京では電車の遅延や停電などもあり、ご不便なさった方もいらっしゃるかもしれません。お見舞い申し上げます。
また帰省や盂蘭盆にかかる法会、東京の海っ端への聖地巡礼などなど、お忙しく過ごされている方々は、暑さ対策は万全に、お気を付けてお出かけください。
さて。私は半引きこもりの爬虫類もどきですので、暑さに溶けそうになりながら怠惰に過ごしております。そんな中、先日髪を切ってきました。お陰で読みかけの本を半分以上読めました。そして昨日の雷雨で数時間PC立ち上げられなかったので、残りの半分も読んじゃいました。
久々の小説です。
何と、西尾維新初体験です。
間が良かったのもありますが、やっぱり内容が面白かったからこそのスピード読了です。たいへん読みやすい。読みやすいくせに、なかなかアイロニーが利いた文章です。そして主人公以外が、とても魅力的です(笑)。
人物に関して、こういう断言はよろしくないかもしれませんが、私はそういうふうに書かれているんだろうと思いました。そしてこういう書き方は嫌いじゃないです。
ところでエントリのタイトルですが。
ATOKさんは「ざれごと」と打ちこむと「戯れ言」としか変換してくれません。「れ」をわざわざ抜かなければいけない。めんどうだな、と思っていたら、何と「たわごと」だと「戯言」と変換してくれます。そんなわけで、実は「西尾維新の戯言シリーズ」についてパソコンで打つとき、まず私の脳内で「ざれごと」から「たわごと」と変換してキーを打ち、読み返すときには「戯言」を「ざれごと」と変換しなおす、という、奇妙な慣習ができあがりつつあります。
なお「ざれごと」と「たわごと」。意味の違いはというと、
ざれ ごと ふざけて口にする言葉。たわむれの言葉。冗談。
たわ ごと ばかげた言葉。しれごと。たわむれごと。
大辞林より抜粋。
同じようで、微妙にニュアンスは違う……?
西尾先生が「ざれごと」と読ませた理由を聞いてみたいような、どうでもいいような。
そんな、鰐屋の戯言でございました。
では、金曜以降にまた。
いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
今週は遅れ遅れて22時の更新となりました。今回はそれなりに時間はとれたのですが、書けば書くほど没文章が増えるという業病に取り憑かれておりました。
さて。今日はわたくしの日頃の行いが禍を呼んだ、という話ではなく、伏線について考えた(苦労した)ことを、つらつらお話ししてみようかと思います。
まず今回の更新で使えない文章を量産したわけですが、なぜこんなことが起こったのか。私はときどきこういう状態に陥りまして、理由の一つに、場面構築に必要な情報の意図的な漏洩が、事前に充分できていなかった、というものがあります。平たく言うと
伏線不足
というヤツでございます。
伏線不足。
大事なことなので二度言いました。イヤな言葉です。当方、頭が弱いクセにプロットをきちんと立てておりませんので(というか、頭が弱いのでプロットをきちんと立てられないのですが)、何度もこの事態に行き当たり、そのたびまんまと誤魔化してきた過去があります。素人物書きとしてはわたくし鰐屋、誤魔化しに関してはそこそこの腕前と自負しております!
……閑話休題。
伏線不足で何が問題になるかというと、最悪の場合は話が崩壊、崩壊せずとも先に進められなくなります。拙作「温みの獄」は誤魔化しスキルを駆使して、何とか最悪を回避できてはいますが、ここで新たな修羅の道が拓けてしまいました。それは
説明地獄
今回わたくしは悟りを啓きました。地獄を堪能いたしましたので。
伏線不足は説明過多を招きます。説明過多を嫌いそれをせず、力業で話を進めるのもアリですが、最終的に物語の筋とは別のカタストロフィを迎えてしまう危険性をはらんでいます。一見、完結まで書き通しているように見えて、実は作者が作品の崩壊を自覚していないだけ、という悲喜劇を作品の外に構築してしまう、と言うものです。
そんなわけで鰐屋はのたうち回りながら書きました。必要な説明を要所要所に盛り込み、盛り込みすぎて場面・ストーリーの主旨に戻れなくなっては修正し削除し、ここでこんなに説明ばっか並べてもウザいだけだよいやそんなこと言ってじゃあ次いつどこで説明するんだようあたしのばかあぁぁぁああああああ!
と、要約するとこのような次第でした。
しかし伏線というものはもともと「点」でありまして、重要の度合いや質を伏せた幾つかの情報を、効果的に配置せねばなりません。それら複数の「点」が読み手の意識下で意味を持って繋がったとき、伏せられた点が線となり、はじめて効果を発揮します。それにはまず「点」の配置に必要な場面を作らねばなりません。伏線不足というのは、必ずしもイコールではありませんが、概ねエピソード不足でもあります。
拙作はと言うと、例えばルミルに関して、あと1エピソードくらいあったほうが良かったかな、と思っています。他にも、まあ、その、いろいろ……。
伏線とは斯くも深遠なるものか。
などと、主に眠気で気が遠くなりつつ考えた今週の更新でした。