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いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
今週は遅れ遅れて22時の更新となりました。今回はそれなりに時間はとれたのですが、書けば書くほど没文章が増えるという業病に取り憑かれておりました。
さて。今日はわたくしの日頃の行いが禍を呼んだ、という話ではなく、伏線について考えた(苦労した)ことを、つらつらお話ししてみようかと思います。
まず今回の更新で使えない文章を量産したわけですが、なぜこんなことが起こったのか。私はときどきこういう状態に陥りまして、理由の一つに、場面構築に必要な情報の意図的な漏洩が、事前に充分できていなかった、というものがあります。平たく言うと
伏線不足
というヤツでございます。
伏線不足。
大事なことなので二度言いました。イヤな言葉です。当方、頭が弱いクセにプロットをきちんと立てておりませんので(というか、頭が弱いのでプロットをきちんと立てられないのですが)、何度もこの事態に行き当たり、そのたびまんまと誤魔化してきた過去があります。素人物書きとしてはわたくし鰐屋、誤魔化しに関してはそこそこの腕前と自負しております!
……閑話休題。
伏線不足で何が問題になるかというと、最悪の場合は話が崩壊、崩壊せずとも先に進められなくなります。拙作「温みの獄」は誤魔化しスキルを駆使して、何とか最悪を回避できてはいますが、ここで新たな修羅の道が拓けてしまいました。それは
説明地獄
今回わたくしは悟りを啓きました。地獄を堪能いたしましたので。
伏線不足は説明過多を招きます。説明過多を嫌いそれをせず、力業で話を進めるのもアリですが、最終的に物語の筋とは別のカタストロフィを迎えてしまう危険性をはらんでいます。一見、完結まで書き通しているように見えて、実は作者が作品の崩壊を自覚していないだけ、という悲喜劇を作品の外に構築してしまう、と言うものです。
そんなわけで鰐屋はのたうち回りながら書きました。必要な説明を要所要所に盛り込み、盛り込みすぎて場面・ストーリーの主旨に戻れなくなっては修正し削除し、ここでこんなに説明ばっか並べてもウザいだけだよいやそんなこと言ってじゃあ次いつどこで説明するんだようあたしのばかあぁぁぁああああああ!
と、要約するとこのような次第でした。
しかし伏線というものはもともと「点」でありまして、重要の度合いや質を伏せた幾つかの情報を、効果的に配置せねばなりません。それら複数の「点」が読み手の意識下で意味を持って繋がったとき、伏せられた点が線となり、はじめて効果を発揮します。それにはまず「点」の配置に必要な場面を作らねばなりません。伏線不足というのは、必ずしもイコールではありませんが、概ねエピソード不足でもあります。
拙作はと言うと、例えばルミルに関して、あと1エピソードくらいあったほうが良かったかな、と思っています。他にも、まあ、その、いろいろ……。
伏線とは斯くも深遠なるものか。
などと、主に眠気で気が遠くなりつつ考えた今週の更新でした。
いらっしゃいませ。当ブログへようこそ。
前エントリに拍手いただきまして、ありがとうございます。
今週もまた(以下、略)。
いや、略してどうするのか、私。
またもや遅刻してしまいました。
実のところ、作品公開の場で更新日を毎水曜0時と公言してはいません。これはあくまで自主的なものです。ただ、2年近くその法則で書き続けて来て、この決して短くはない期間をお付き合いくださっている方々との間には、暗黙の約束が成立しているという認識もまたあります。ですからできる限りこれは守ってゆくつもりでした。しかしちょっと無理が生じて来ています。
と言っても、週一連載をやめると言う話しではありません。実はプライベートで月曜火曜に、執筆時間が取りづらい状況が多くなってきているのです。
7月中は何とか水曜でがんばりつつ、更新曜日の変更を視野に入れて調整しようかと考えています。
さて。
前置きが長くなりましたが、久しぶりに読書の話しを。
やっと谷崎の文章読本を読み終えました。吉行淳之介の解説も含めて、たいへん勉強になりました。きっと何度も読み返すことになると思います。最初から最後までを読み通すというのではなく、適当に開いたページを読むというような感じで。
そしてまだ購入していませんが、次は三島の文章読本を読む予定です。文章読本の類は谷崎の一冊で充分かと考えていましたが、うわさによると三島版は谷崎版にケチつけるつもりで書かれたとか何とか。三島は大好きな作家でもありますし、そういうことならぜひ読んでおこうと思った次第です。
当ブログで谷崎潤一郎の文章読本にふれるのは、本エントリが最後になると思います。その最後の機会に目次の一部をご紹介させていただきます。
二 文章の上達法
○ 文法に囚われないこと
○ 感覚を研くこと
小説のハウツー本にはよくありそうな項目ですが、各項にはいくつかの節があって、たとえば「文法に囚われないこと」の項には
・日本語には西洋語にあるような文法はない
・日本語には正確なるテンスの規則なし
などなど。
前書きによれば、本書は昭和九(西暦1934年)に書かれたものです。ですが日本語の特徴を取り上げたうえで、そういう特徴を備えた言語としてのうつくしさとはどんなものかを説いている本書は、日本語が著しく変化しない限り、文章を書く人にとって実用書であり続けるでしょう。