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前エントリに拍手いただきまして、ありがとうございます。
相変わらずちまちまと谷崎の「文章読本」を読んでいます。先日は句読点の項を読みました。
さて。ここで問題です。下記文章に、正しく句読点を打ってみてください。
〈引用〉女で盲目で独身であれば贅沢と云っても限度があり美衣美食を恣にしてもたかが知れているしかし春琴の家には主一人に奉公人が五六人も使われている
谷崎潤一郎「春琴抄」
文章読本 / 谷崎潤一郎(中公文庫)より 実は句点「。」読点「、」の打ち方には、決まったルールがありません。だから句読点の打ち方に悩むのは、文章を書くことについて真面目に考えていれば、むしろ当たり前だと言えます。自由とは、無限の正解を内包しているからです。
もちろん上記の文章には、谷崎自身が打った正解があります。しかしこの「春琴抄」は小説作品として発表された当時、上記のようにほぼ読点なし、句点も段落の〆のみだったのです。
私は「温みの獄」連載を始めるにあたって、句読点(特に読点)の打ち方について、ある程度のルールを自分なりに立てています。まず文章の流れをできるだけ切らないように、読点すなわち「、」を極力減らす。しかし一文の長さには変化を持たせて、リズムを出すよう心がける。
〈例〉 男が壷を手に取った。あの強引な香りは空気にふれた時間ぶんだけ鮮烈さが目減りしている。自らの杯へ、次いでヴァルドへと口が向けられた。差し出す。注がれる。
拙作「温みの獄」より 上記文章の文字数は順に、10、32、23、5、5という構成です(句読点含む)。二番目の、酒の香りについての描写以外は、単に動作を説明しているに過ぎません。これをどう読ませるか。酒を注ぐ・注がれるというやり取りを、「わざわざ書くこと」にどんな意味をこめるか。文章によってイメージを想起させ、そのイメージができるだけ淀みなく流れるように句読点を置いています。
と、毎回毎週こういうことをやってます。
当たり前ですが、実際には書き手の思惑どおりに読んでもらえるわけはないのですけどね(笑)。ただこうした「自分ルール」を作っておくと副産物として、文章の統一感をある程度調整できるという利点があります。調子の悪いときというのは、たいてい書くリズムが悪いので、必然、文章自体のリズムも悪くなります。長期執筆が続く場合、こうした方法論を作っておくことは質の保持において、なかなか有効だったりします。
ところで私が初めて読んだ谷崎作品が、まさに「春琴抄」でした。なのにこのぶっ飛んだ体裁の文章について、実はまったく覚えていません! (残念ながら当時読んだ文庫本は手元にありません)いったいどういう読み方したんだろうと、自分で自分が不安になりました。
小難しいこと言ってるわりに、根はテキトー人間でございます。
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